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■『TAJOMARU』■(映画) 


タジョウマル
芥川龍之介の名作「藪の中」を(いったい何度目になるのでしょうか?)映画化したのが本作。
劇場にてインパクト大な小栗旬の鬼の如き形相と、プロデューサー 山本又一郎、脚本 市川森一のクレジットが添えられたポップを初めて目の当りにした際、人気俳優を起用しての古典劇というのもそれなりに面白いんじゃないかという期待感はありました。
短編ながら幾通りもの解釈のできる傑作ミステリーである原作小説を、市川森一氏なりにどのようなアプローチで見せてくれるんだろうか、という楽しみゆえの期待感もあったのですが、と同時に多襄丸ではなくTAJOMARUという英語表記(厳密に読めばタジョウマルではなくタジョマルじゃないのか? ジャジャマルみたいでヤだなぁ)やビジュアルに観られるネオ時代劇な印象がちょいと気にかかってはいたのですけど・・・。

そもそも本作の企画は市川氏ではなく山本又一郎氏とのこと。小栗旬の舞台(『カリギュラ』だったそうな)を観た際の観客の反応から、かねてから企画していた「藪の中」を彼で作ってみたいと思い立ったところからの企画なんだそうで、なるほどよくよく見れば脚本担当の部分に市川氏とともに水島力也という方の名前も併記されています。これ、山本氏のペンネームなんだそうで。つまり原案を山本氏、そのリライトをしたのが市川氏というわけ。
思い描いていた企画を実現させるというプロデューサーとしての醍醐味もあるでしょうが、それ以上に旬の役者(いみじくも名前が旬ってのも洒落みたいな話ですな)を起用することで興行収入も見込める、つまり一石二鳥なわけですが映画の出来もそれに比例するかというと・・・、なかなかそうはいかないのが現状のようで。とにかくこの映画、肝心のその脚本が悪いんですよ。

原作の「藪の中」は、お侍さんが美貌の奥さん真砂を連れて山道を歩いていたらば、盗賊の多襄丸に襲われる。侍は多襄丸と格闘の末失神。その間に真砂は多襄丸に陵辱されてしまう。侍が気づくと真砂は自分は多襄丸のものになるから夫をここで殺してくれと懇願する。で、後日侍は死体となって発見されるのですが、はたして侍は多襄丸に殺されたのか? はたまた妻が陵辱されたことを恥じて自殺したのか? この事件について、真砂、多襄丸、侍の死体を発見した木こり、真砂の乳母、そして侍の亡霊がそれぞれ証言するのですが、答えは明確にならないままに終る、つまりは真相は「藪の中」というお話。
映画化作品としては黒澤明の『羅生門』(50)が有名です。これは名言されてないことですが、おそらくは山本Pの頭の中には『羅生門』を超える作品を、という思いがあったのかも。邦画の金字塔ともいえる作品に挑戦しようというのは、映画製作者ならば一度は考えるのは当然ですもんね。


さて、肝心の本作。
応仁の乱の頃の京都を舞台に、管領職である畠山氏のお家騒動として原作を再構築&解釈したのは、歴史好きな方にとってはまず興味深いところ。もっとも登場人物は将軍足利義政以外はすべて架空ですけど。
代々管領職を務める畠山氏には信綱と直光という仲の良い兄弟がいて、ここに大納言の娘阿古を加えての3人は幼馴染み。とりわけ直光は畠山の屋敷に芋泥棒に入った少年を罰しようとせず、桜丸と名づけて自分の側近にする優しいところもあります。このあたりの文部省推薦の如き至極甘々な演出と、お世辞にも上手いといえない子役たちの演技は、観ていてちょっと辛いものがあります。それを補佐するかのように登場する畠山家の家臣景時(近藤正臣)の演技だけが目立つのなんの。

で、その4人が成長してそれぞれ信綱(池内博之)、直光(小栗旬)、阿古(柴本幸)、桜丸(田中圭)となるわけで、直光と阿古は将来を誓い合った仲になっています。ある日、阿古の親である大納言が病で急死。時の将軍足利義政(萩原建一)は、大納言の残した莫大な遺産ともども阿古と婚姻した方を畠山の跡継ぎとすると言い出します。
困ったのは畠山兄弟。直光は自分は阿古さえいれば遺産など要らない。信綱も弟の許婚を娶ることに躊躇しつつも弟に家督を奪われるかもというジレンマに悩みます。
そこにしゃしゃり出てきたのが桜丸。
あろうことか彼は
「直光はんはあんなこと言うてても、いつ心変わりするかわかりまへんでぇ。ここは力づくで阿古はんをモノにしなはれ」
と信綱にささやくのでした。
直光に恩のある桜丸なのにこの変わりようには驚きますが、じつは桜丸は子供の頃から将軍義政の男色の相手をさせられており(具体的な描写はありませんが、義政にお尻を触られたりする場面はあります)、それがもとで根性がひん曲がっていたのです。
その桜丸の言葉を真に受けて阿古を陵辱する信綱。それを知った直光は信綱から阿古を奪うと、桜丸と景時を側近として都を脱出。しかし、桜丸は直光の目を盗み景時を斬殺すると直光と阿古をほったらかしにして都に引き返すと、今度は信綱を残殺して自分は直光になりすまして畠山家を乗っ取ってしまうのでした。

さて、景時の遺体を発見した直光はてっき信綱の追っ手によるものと思い、阿古とともに山道を進みます。そんな二人の前に現れたのが、どこかのファッション・ショーから抜け出してきたような奇抜な衣装(塚本晋也監督の『双生児』(99)みたいだなと思ったら、本作のヴィジュアルディレクター柘植伊佐夫氏は『双生児』も担当してらっしゃいました)を身にまとった盗賊多襄丸(松方弘樹)。
ここでようやく原作のエピソードになるわけで、多襄丸に失神させられた直光は木に縛りつけられその間に阿古は多襄丸に陵辱される。気づいた直光を指差し「この人を殺してくれたら、私はあなたのもになる」と、気が変わったように多襄丸に言い寄る阿古。そして多襄丸と直光が格闘している間に阿古はどこかへ行方をくらましてしまう。格闘の末に直光は多襄丸を倒す。
多襄丸は名刀「波切の剣」を直光に手渡し、盗賊多襄丸を倒した者が多襄丸の名を受け継ぐのだ、と言い残して息を引き取ります。愛する阿古に裏切られ、兄には追われ、夢も希望も無くした直光は、かくして新多襄丸として盗賊に身を落とすのでありました。

と、ここまでが映画の前半部分。僕の文章も長ったらしいですが(笑)、映画のほうもダラダラ長い。なんせ上映時間が2時間11分もありまして、宣伝スチールなどにあるファッショナブルないでたちの小栗旬はいつになったら出てくるの? とシビレを切らしたファンの皆様、お待ちどうさまでした、ようやくここから観られますよ。

で、後半は直光=新多襄丸が、途中で出会った道兼(やべきょうすけ)ら盗賊たちとともに盗賊稼業をして暮らす場面が続くのですが、ある日、風の便りで信綱が急死し、家督を弟の直光が継いだということを知ります。
驚いた新多襄丸が畠山の屋敷に戻ってみると、そこにいたのは桜丸。しかも阿古を嫁さんにしているではないですか。桜丸に切りかかる新多襄丸でしたが、盗賊を追ってきた所司代(本田博太郎)に捕らえられるとお白州の場へ引っ立てられてしまいます。
ここで、事の顛末が新多襄丸、桜丸、阿古、そして道兼の口から明かされるという、いわゆる原作の肝にあたる部分が展開されます。あの森の中でいったい何が起こったのか、突然の阿古の心変わりの真相は如何に。このあたりはけっこう説得力がありまして、それはそのまま本作による原作に対するひとつの解釈が描かれるわけです。

ただ、問題なのはここで終っておけばそれなりにまとまった作品になってたよね、ってなものですが、映画はさらに物語が続くこと(なんせ2時間11分ありますから)。
これがまたダラダラ長いのなんの。はたしてその後のエピソードは必要なのかぃ? と観終って首を傾げることしきり。まぁこれから映画を観ようという方のためには敢えて伏せておきますが、お白州の場面で終っても特に物語としては大きく変わるわけでもありません。
悪役を一手に引き受ける桜丸というキャラについても、掘り下げが浅くて中途半端な印象しかなく、クライマックスの直光との一騎打ちにおける本来ならばカタルシスをおぼえるであろうシチュエーションにも、観る側の感情を揺さぶるものに至ってないのはやはり脚本の弱さにあると思います。

本作はほとんど時間的猶予のない状況で製作されたとのことで、中野裕之氏が監督に決まったのも急遽ということだったそうな。中野監督の作品はいままで一度も観たことがなくて、僕自身どのような作風なのか知らなかった(「仮面の忍者赤影」をリメイクしたのとかありましたなぁ)んですけど、本作については脚本もそうですが演出のほうもメリハリがなく終始ダラダラした印象。劇中、新多襄丸や道兼たち盗賊の一団がまるでラップの如き踊りを披露する場面があって、そこは面白い演出とは思いましたが、考えてみればすでに北野武が『座頭市』(03)でやってますもんね。
全体的になんだか舞台でのお芝居を観ているような感じで、絵に奥行きと躍動感が一切感じられず、編集の方法ひとつでもっとリズミカルな作品になろうものを、そういうところがほとんどない(これも時間の制約ゆえか? そもそも中野監督ってそんな作風なの?)。これって板東玉三郎が監督した『夢の女』(93)を観た時と同じ印象で、現在、舞台公演をフィルムに収めて公開するという試みが松竹系のシネコンなどで行われていますが、そんな感じなんです。

先述した近藤正臣や松方弘樹の飄々した多襄丸(じつに魅力的)やショーケン演じる足利義政(怪演!)など、さすがベテラン俳優の演技の妙が味わえる部分もあるのですが、物語の負の部分を請け負う田中圭に柴本幸にはどうも荷が重たかったような印象もあり、かといってそれじゃあ小栗旬は抜きん出ているのか、といえば必ずしもそうではない。いや、それぞれにいい俳優だとは思うのですが、それらを十分活かしきれてないのは、先にも書いたように脚本の出来によるものに加え、製作期間の短さからくるある種やっつけ仕事ゆえの悲劇だったと思いますし、一見重厚なようでその実中身はスカスカな印象が拭えないのもそのあたりからくるものなのかもしれません。

それでいて、音楽面では大坪直樹のスコアとともに、リンキン・パークのヴォーカリスト、チェスター・ベニントンのソロ・プロジェクト、デッド・バイ・サンライズの楽曲を使用(劇中、チョロっと流れるだけですが)していたり、エンドクレジットはB’zだったり(この音楽面の統一感の無さときたら!)、配給はワーナーブラザースというように世界規模の市場を見込んだ作品(タイトルの英語表記もそういうことなんですね)になっているところを見るに、結局は映画を商品としか扱っていないプロデューサーの思惑と映画の内容がまったく絡み合っていない悲惨な映画、という点においては異色作と呼べるのかもしれません。

(MOVIX八尾にて鑑賞)

【採点:100点中35点】

※本作のメイキングDVD。
小栗旬のファン向け。



※こちらはメイキング本。


※こちらは芥川龍之介の原作本。
この機会にどうぞ。



※あら、ノベライズ本も出ていたのですね。



コメント

No title

>showken-funさん
コメントありがとうございます!

なるほど、レビューでは山本Pひとりに責任があるような書き方をしておりましたが、配給会社からの圧力が製作期間の切迫につながっていたんですね。
山本Pとしては切歯扼腕な想いだったのかも・・・。

最初の市川脚本、ひょっとしたら発売中のノベライズにその片鱗がうかがえるかもしれませんね!!

No title

はじめまして。

この映画について詳しく調べたということではないのですが、少しだけ。
映画としてはどうにも、腑に落ちない作品になっていましたね。

脚本はまず市川さんが仕上げたものを、「カンヌで賞でも取るつもりですか」ワーナーからこれでは客が入らないと指摘され、山本Pがクランクインぎりぎりまでかかって手を入れたそうです。
見せ場を作りたかったのでしょうが、どうにもちぐはぐなのは、そのせいじゃないのかな、と思っています。
最初の市川脚本が読んでみたいなあと思っています。

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