■『借りぐらしのアリエッティ』■(映画) 


カリグラシノアリエッティ
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スタジオ・ジブリの最新作は、イギリス人作家メアリー・ノートン作「床の下の小人たち」の翻訳作品。
宮崎駿は脚本にまわり、ジブリのアニメーター小林宏昌による初メガホンとなる。

原作の舞台であるイギリスから東京郊外、小金井近辺に場所を移して展開される物語は、少年と人間よりも小さな小さな「小人」の少女との交流を描いたもの。


翔(声:神木竜之介)は12歳の少年。
彼は心臓を患っており、近く手術を控えている。それまで安静に暮らすために、都市郊外に住む祖母(声:竹下景子)の家へとやってくる。
自然に囲まれた大きな屋敷。
そこで翔は信じられないものを目の当たりにする。

それは、人間よりもずっとずっと背丈の小さな「小人」の少女だった。
アリエッティ(声:志田未来)は、父ポッド(声:三浦友和)、母ホミリー(声:大竹しのぶ)と3人で、屋敷の床下で暮らしていた。
人間に見つかってはいけないという決まりだったが、不覚にもアリエッティは翔に見つかってしまう。
人間への恐怖よりも好奇心が勝ったアリエッティは、次第に翔と交流を持つようになる。

が、ある日、屋敷の家政婦であるハル(声:樹木希林)にホミリーが見つかり捕獲されてしまう事態が起こる。
翔はアリッティと共に、ホミリー救出に奔走するのだった。

タイトルの「借りぐらし」とは、アリエッティたち小人は、床上の人間界にあるものを盗むのではなく、「借り」てくらしているという意味(とはいえ、借りっぱなしで、返す描写は一切ないのはどういうこったぃ)。

前半のヤマ場である、アリエッティが初めて「床上」の人間の生活圏へ「借り」に出かける場面の緊迫感にまず引き込まれる。
続いて後半、心臓が弱い翔ゆえ、それまで誰の力にもなれなかった(劇中の翔の言)翔が、自分よりも小さくか弱いアリエッティのために力を注ぐその姿と、その騒動が収束した後に訪れる爽やかな感動は、現代生活で疲れて病んだ人々には一服の清涼剤になること請け合い。

また、本作の悪役を一手に引き受ける家政婦ハル。
とはいえ、本作においてもっとも人間臭いキャラであり、この極めてスケールの小さい、それでいてドラマティックなファンタジー巨編において、いいアクセントになっていると思う。


それぞれのキャラクターの声を担当した俳優陣は、誰もみな適材適所であり、彼らがそのまま実写でそれぞれのキャラを演じてもなんら違和感がないほど。
特にアリエッティの志田未来の、どこかクールな声はキャラに命を吹き込むにありあまる仕事ぶり。

あくまで余談だが、ラスト近くのとあるシーンでの彼女のアフレコは、ぜひぜひ目を閉じて五感を集中して体験してもらいたい。
おに~さんは、思わずドキドキしてしまった(具体的な場面と、どういうアフレコかは敢えて書かない)よ。
あの声だけでご飯が何倍も喰えるほどのオカズぶりである。


ジブリお得意のプロダクション・デザイン、とりわけ本作では自然に包まれた家という舞台にリアリティを持たせる、細部にまでこだわったその自然の描写の緻密さ。
加えて床下における、カマドウマ(俗に便所コオロギと呼ばれる)やダンゴムシを、あれだけ愛らしく描けるのもジブリならでは。
そういった美術面だけでも入場料金だけの価値は十分ある。

また、全体のスコアを担当したケルト・ミュージック界の歌姫、セシル・コルベルの功績も無視できない。
彼女の起用は、宮崎御大の強い希望だったそうで、そもそも、日本を舞台にした物語にケルト・ミュージックというのも奇異な印象も受けるが、彼女が紡ぎだすヴォーカルとスコアの数々、これがけっこう映像にしっくり馴染んでいる。
かように本作は、演技面、技術面、音楽面においてじつに優れた作品だといえる。



と、ここまで持ち上げておいてなんだが・・・、ここからは観ていて気になったことについて挙げてみる。
本作に感動された向きは読み飛ばしていただきたい。

まず、アリエッティをはじめとする「小人」たちの名前に強烈な違和感があった。
たしかに原作はイギリスが舞台なので、かような舶来なネーミングなんだろうが、せっかく舞台を日本に移しているのだから、「小人」たちも日本風でいいのではないのか?
たとえば、アリエッティじゃなく、花子とかトメ子でいいだろう。

「借りぐらしの花子」もしくは「床の下のトメ子」・・・。
なんて素敵にジャパネスクなタイトルではないか(多少、怪談めいたイメージもなくはないが)。


また、登場する「小人」たちのその人口について。
劇中、翔がアリエッティに対して、
「君たちは滅びゆく種族なんだ」
などと根拠もなく言ったばかりに、彼女を怒らせてしまう場面がある。
なにゆえ、翔は「小人」たちが「滅びゆく種族」などと決めつけたのだろう。
「私たちはそう簡単に滅びはしない!」
というアリエッティだが、ならばほかの「小人」はどこにいる?

我々人間と同じ歴史を生きてきたのであれば(その生活様式をみれば、やっぱりそうなんだろう)、その数も同じくらいいると考えるのも不思議はなかろう。
それがなぜアリエッティ親子だけしか存在しない(ように見える)のか。
明確な答えは劇中で語られることはなく曖昧なまま・・・。

日本には各地方で「小人伝説」というものがある。
なかでも有名なのは北海道のコロポックルであろう。
本作も、原作の舞台を日本に移し替えたのであるならば、アリエッティたちにコロポックルの姿を反映させてもよかろうものを、そこまで手の込んだことはしていない。
ただ、途中で登場するスピラー(声:藤原竜也)という「小人」は、どう見てもネイティヴ・アメリカンであり、こういうところにも、製作サイドの「小人」に対する認識が定まっていないように見える。


このあたり、ジブリのドンである宮崎氏はどのように考えていたのだろうか?
かつて、『千と千尋~』では、土蜘蛛伝説、岩舟伝説、果ては春日大社の春日様などなど、日本古来のあらゆるカテゴリーをアレンジ(といえば聞えはいいが・・・)して、物語にぶち込んだ前科があるので、今回もコロポックルの要素を無節操に盛り込んでいるかと思いきや、そこは原作を重視した(といえば聞えはいいが・・・)スタンスを貫いたようだ。

でも、結果的にはそれがかえって本作に違和感を与えてしまっている。


ということを考えると、やっぱり本作をわざわざイギリスから日本へ移し変える必要があったのか? という最初のドン宮崎の判断には疑問ばかりが残る。
単に雰囲気としての欧風な味付け(劇中では、これみよがしにイギリス製ドールハウスを登場させるあざとさよ)というのであれば、そこに物語の深みなどは感じられい。

先にも書いたように、水準以上のクオリティのある本作ではあるけれど、ドンとスタッフの間にどれだけの意思疎通が図られていたのか、そんなところまで気になった一作だった。


・・・というようなことにまったく気にならなければ、毒もトゲもアイロニーもない本作ゆえ、このサマー・シーズンにおいて、たとえば御家族揃って鑑賞するにはもってこいの1本である。

親御さんにたちは、ぜひ、夏休みのいい思い出作りとして、TVではなく大きなスクリーンをお子様に体験させてあげていただきたいものだ。

(TOHOシネマズ橿原にて鑑賞)

【採点:100点中50点】


※メアリー・ノートンによる原作本。
映画と違い、原作はかなりアイロニーに満ちているそうな。



※主題歌を含む、セシル・コルベルによる本作に対するイメージ・アルバム。
ジブリおなじみのイメージ・アルバムですな。



※こちらは本来のサウンドトラック・アルバム。




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